浦和での伝道は、1899年、北足立郡浦和町に講義所が開設されたことに始まる。この働きは、当時、立教学院総理、立教学院英語専修学校校長であり、東京飯田町諸聖徒教会の主管者であったアーサー・ロイド司祭によるものであった。当初より竹島廉平伝道師が従事した。
1901年よリスマート執事が着任し伝道にあたった。この年に「教会」としての資格を得て、翌年12月に旧礼拝堂が完成し「浦和諸聖徒教会」と命名された。この時に「浦和諸聖徒教会設立の願い」が提出され、翌年1月に埼玉県知事に受理されている。
1911年、婦人宣教師ミス・アプタン、ミス・マアタンは文書伝道を始め、教会付属事業として浦和幼児園を開設した。11月には麗和幼稚園が開園することとなった。
1927年12月にジョン・マキム主教司式によって定礎式が行われ、翌年4月17日には念願の新聖堂が完成し、聖別式が行われた。設計は、アメリカ人建築家J.M.ガーディナーの弟子であった上林敬吉氏。
礼堂聖別式 昨年十月起工以来半年を費して竣成を告げたる礼拝堂の聖別式は四月十七日(火)午前十時より監督マキム師により極めて厳粛荘重に行はれたり。チャンセルには監督の外、杉浦、山縣、大矢、奥村、竹田、駒野、今泉、佐藤の諸聖職及伝道師列席、先づ監督の聖別式辞及聖別祈祷あり、次で大矢長老は聖別書を朗読し、監督の献堂祈祷終りて聖歌三百六十一番の後聖餐式に移り杉浦長老使徒書を朗読しライフスナイダ監督差支にて臨席なかりし為め大矢長老代つて福音書を朗読し神学院教授山縣長老説教せられたり。かくて聖職及教会委員陪餐の後、監督の祝祷、聖歌三百四十一番の中に行列退堂にて式は終り、それより聖堂入口に一同整列記念撮影を為したる後、会館にて来賓接待のことあり、特に列式聖職、教会委員、外人来賓二十余名は埼玉会館の食堂に於て来賓接待のことあり、特に列式聖職、教会委員、外人来賓二十余名は埼玉会館の食堂に於てマキム監督より午餐の餐鷹を受けられたり。当日は町の有力者や他派の教会よりの来賓を加へて八十余名の出席者あり、マキム監督夫人を始め十名程度の外人来賓をも見受け甚だ盛んなる式会なりき。
詳細は、「聖堂聖別90年」記念誌などをご覧ください